歴史文化

桑原城(くわばらじょう)

《通称・別名》高鳥屋(たかとや)城・水晶城・矢竹城-諏訪頼重が最後に拠った城-

所在地 諏訪市
史跡指定 県史跡
立 地

桑原城は、諏訪市四賀桑原区と普門寺区の間の後背の独立峰に近い山上にある。 上原城とは、直線距離で2㎞余の位置にあり、標高も比高も似たような高さで、主郭からお互いに見通せる近さにある。  上原城よりは山容が大きいために、砦部分け大きく、主郭の古松は山麓からもよく見える。 標高981m 比高200m

城主・城歴

桑原城の築城年代は不明である。桓武天皇の皇子有 員親王が上社大祝をついで、神氏と称し、その居館跡とされる御着衣(みそぎ)平は、桑原城の西山麓の普門寺地籍赤津川の扇状地上にあり、一帯は古くから上社にとって重要な場所である。  保元の乱しごのとき源氏の棟梁義朝に従って活躍した諏訪武士に諏訪平五、桑原安藤二、安藤三の名が『保元物語』の中に出てくる。  桑原兄弟は大祝の一族のようで、中央で活躍して名を残すほどの人物であるから、桑原郷にそれなりの居館を構えていたであろう。  そのころに桑原城ができていたかわからないが、太祝為信が奥羽地方の前九年の役(1051~)や後三年の役(1086~)にその子為忠を従軍させていることを考えると、ある程度の防御施設を備えたものができていたことが想像できる。  桑原城の西館から東麓立縄川に沿った仏法寺周辺地域は、古墳が密集している地域で、先述したように一帯は古代よりひらけていた所であるから、大祝の一族が扇状地の谷口や沢口に屋敷を構えていたと思われる。  しかし、その屋敷がどこであったかはっきりしない。考えられるのは、普門寺の御着衣平周辺か桑原の仏法寺周辺あたりが最も可能性が高いように思われる。  桑原城が文献に出てくるのは、『神長守矢満実書留』の文明十五年(1483)正月に上社大祝継満が惣領家政満一家十余人を謀殺したことから起った上社の内訌の時である。  大祝継満が高遠へ落ちて後、「三月十日、高鳥屋城神長上小屋住居在所引替栖家見悩敷有様哀也。同十九日、下官遠江守興春、落仁祝殿(継満)味方ニテ寄力勢引攣百騎斗、高嶋ヲバ興春手者討基置、上桑原武津迄焼證、高鳥屋小産(屋であろう)被座候松□(月か)奉初、矢崎肥前守、神平、神二良、千野兄弟、有賀兄弟、小坂兄弟、矢崎対島守、福島父子 三騎、馳寄勢十七騎馳向、下宮勢見引々遣懸湯腰為合戦……。」とあって、高島屋城とはっきり名前が出てくる。惣領家の政満はすでに無く、また大祝継満も伊那へ落ち、上社は不安定な日々を送ることになったが、神長官満実は二月二十日に上桑原上の神主宿所へ移り、三月十日には更に高島屋城の上小屋へ移り住んだようである。その住居が実に見すぼらしく哀れであると言っている。上小屋というのであるから、下社勢や伊那へ逃れた大祝勢の来襲に備えて、山上の砦の小屋に住んだと思われる。その小屋が粗末なもので、心細い限りであった様子が分る。  三月十九日になると、果たせるかな下宮の大祝遠江守興春が継満の味方をして、百騎ばかりで攻めこんで来たのを、高鳥屋小屋に居た松月(政満の弟)はじめ惣領家の面々が討って出て、湯の腰の合戦で討ち破った時の記録である。  次に桑原城が記録に出てくるのは、天文十一年(1542)武田晴信が諏訪頼重を攻め滅ぼした時である。  『守矢頼真書留』の天文十一年の条に  「六月二十四日に甲州高遠下官同心にて打人候由、酉刻(夕方六時)つけ(告げ)きたり候。……」に始まり、武田晴信の来攻とそれになすすべもなく降参に追いこまれる頼重勢のようすが詳しく書かれている。  高遠勢と武田勢に攻められては、とても上原城を持ちこたえることができずに  「七月二日亥刻(夜十時)に桑原へ御うつり候……。」ということで桑原城へ後退して、次の作戦を考えることになった。  しかし三日には「酉刻に大洪水(大雨)ふる、頼重は桑原の城へのほり明日の手あて(作戦)見んとて本城よりつるねへ御くだり候、それを頼重こそ城を御はつし候と申、ことごとく人数いそぎ頼重の御こへ候かたへ行とて、おちちり候……。」となり、大将頼重が足長様への尾根筋の普門寺ロ、つるねを降って様子をみている間に、城兵は大将が落ちたと思って、後を追って逃げ散ってしまった。  その夜舎弟大祝殿同ちご様等かれこれ二十人ばかりで夜を明かし、敵も城のつば際まで取りついて来たので、いよいよ兄弟三人打ちものをとって、切って出ようとした所、甲州方より開城の話があって、降参することになる。  七月五日に甲州へ移され、廿日夜板垣屋敷で切腹して果て、諏訪氏惣領家直系は滅亡する。  『守矢頼真書留』は細かに書かれているのに対して、『高白斎記』は実に簡明にそのあたりを記録している。  「三日桑原へ押詰風雨、四日桑原城攻頼重ヲ生捕、酉刻各陣所帰ル、五日頼重甲府へ遣ハサル、中刻着府、九日屋形様御帰府、十三日諏訪大悦(祝か)方へ御預、十八日八月節、十九日丁卯頼重牢者、廿一日己巳寅刻(午前四時)頼重切腹サセラルゴ  甲州方の記録『妙法寺記』天文十一年の条には「武田殿切勝食サレ候而、諏方殿ヲ生取二成サレ候而、府中ニテ腹ヲ兄弟御切候」とあって、頼重と弟大祝頼高は、共に甲府で切腹して果て、惣領家の直系は滅びてしまう。  以上のように、桑原城については、記録がよく残っている方である。 そして、諏訪の多くの城が当時どのように呼ばれていたか分らないのに、高島屋城、上小屋、桑原の城、と呼ばれていたことがはっきりしている。

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