歴史文化

武居城(たけいじょう)

《通称・別名》片山古城・武井城

所在地 諏訪市
立 地

武居城は、諏訪神社上社の神休出である守屋山の麓、上社に隣接する台地上と背後の山尾根の末端部にかけて造られている。  東は杖突峠の道が通る下馬沢川が大きな扇状地を追っていて、この扇状地と武居城の根小屋推定地がある片山の台地との間には、西沢川が流れ下っている。これに対して、台地の西側の上社本宮や神宮寺跡との間には、女沢が深い沢を造っていて、更に台地の前面は比高60mの急崖で、正に要害の地である。  台地上は東西300m、南北200mの広さがあり、仲畑、羽端、一本松、サガリ等の地名を残し、台地の南の一段高くなった辺りが保科畑と呼ばれて、居館跡と推定されている。そして、台地上一帯は、諸土居館であったと言い伝えられていて、古く縄文時代からの遺跡で出土品も多い。  また、保科畑からは、ガニ水道や石垣、中世陶器破片、青磁香炉破片、須恵質陶器破片、古銭などが発堀されていて、(『中洲村史』)居館の存在が暗示されている。 標高942m 比高165m 背後10m

城主・城歴

武居城についての資料は『諏訪古事記』や『信濃国昔姿』『諏訪古城考』等大同小異の表現であり、後世資料であるために、その内容をすべて信じることはできないが、伝承を知る上で参考になる。  『信濃国昔姿』の「神宮寺村武井城」の項を見ると、  「……後醍醐帝御代元徳二年(1330) 諏方五郎時重鎌倉の執権北條相模守高時の聟と成、信濃国を一円に得て、当所武居に居城を構在住す、東の方西沢口大手、西は女沢の要害嶮岨を用て搦手とし、南は削りたることきニ平有、是を本丸とし、都而片山の端より平の内は外曲輪、又西沢の堀切をは、から堀に准、天狗山、山伏塚は高遠口物見の出丸と見へ、馬出しの跡等残れり、時重は正慶二年(1333)北條一家滅亡之節鎌倉二而高時入道を介錯し其身も自害す、其後城主知れす、天文年中諏訪頼重家臣篠原禰三郎城代す、武田信玄に被責降参落城す、故に武田領と成、勝頼の代に至諏訪越中守頼量(豊か)領知す、天正十年勝頼滅亡の後、家康公御領と成、諏訪頼水公領主と成……。」  これによると五郎時重が居城を構えたとあって、片山の台地上に居館が造られたのが鎌倉時代の終わり頃になる。  その後、文明十五年正月の大祝継満の惣領家の謀殺事件で、継満は高遠へ逃れ、翌文明十六年に伊那勢の助力を得て諏訪へ侵入し、片山古城を取り立てて陣城として、郡内勢の立籠る干沢城に相対したことがあった。 その後、文明十五年正月の大祝継満の惣領家の謀殺事件で、継満は高遠へ逃れ、翌文明十六年に伊那勢の助力を得て諏訪へ侵入し、片山古城を取り立てて陣城として、郡内勢の立胆る干沢城に相対したことがあった。  「(文明十六年五月三日)トツ上官下位殿、伊那郡勢数小笠原左京大夫政貞、知久笠原諏方信濃守継宗、彼仁々初メ三百騎引攣、自峠下磯並前山に陣を張り、諸勢下處下位殿被食落馬、……同六日壬辰開片山古城被取立、然間郡内勢数向敵陣干沢城馳龍、……。」と、その時の様子を『神長守矢満実書留』に詳しく書かれている。  片山と干沢城の間は、前官を挟んで1kmばかりの距離であり、相方緊張した対陣となったと思われるが、府中の小笠原が背後に迫ったために継満や伊那勢は退陣したのであろう。  武居城は上社本宮の隣接する場所で、台地上は要害堅固で、館城を構えるには格好の場所であるから、古くから諏訪氏一族が本拠を置いたことは考えられるところである。  しかし、文明十六年の下位殿(大祝を退位した意)継満の軍勢があっさり陣城を構築しているところをみると、干沢城や大熊城のように守備兵が置かれる状態でなく、放置されていたように思われる。  天文十一年の武田勢が侵入した時も、当然、高遠勢と甲州勢の一隊は大熊城へ向かうに当ってはここを通過したであろうから、篠原弥三郎が城代として居ったとすれば、多少の抵抗はあったはずである。以後の様子は分らないが武田氏統治時代には、杖突峠ロを抑える任務はあったにしても、それほど重視されたようすはなく、改修もほとんどされなかったのではないかと思われる。  城跡の遺構であるが、前述したように、武居平と呼ばれる広い台地上が居館跡や諸士居館と比定されていて、保科畑の北下の一帯は空堀があったのではないかといわれている。  背後の小山は、武居平より比高100mばかりで、城の峯と呼ばれ砦のあった所である。

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