高尾山城(たかおさんじょう)
所在地 | 岡谷市川岸三沢 |
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史跡指定 | 市史跡 |
立 地 | 天竜川右岸。塩嶺山地から派生した独立峰、通称女高尾の山頂。標高1,018m 比高140m |
城主・城歴 | 築城年代、築城者ははっきりしないが位置からして、下社大祝金刺氏の分流、三沢・新倉(あらくら)両地域の地頭、三沢氏であろうと考えられている。 三沢氏は下社の有力社人で、戦国期には武田氏に属し、諏訪五十騎の中に三沢対島守の名がある。 永禄8年(1565)11月晦日付けの『諏訪上下宮祭祀再興次第』の下社関係の所に「三済山(みさやま)之山奉行三沢対島守、従ニ往古、取来候分者、舟役・杣取締役・檜物師役・灰汁役、三沢山之役、如ㇾ此致ニ所務一勤ニ其職一之申言上候。・・・」とあり、御射山祭の山奉行を勤めている。 山麓の小字大島が三沢氏の居城とされ、小字今見堂(いまみどう、川岸小学校南西部)のあたりが根小屋と伝えられる。今見堂付近にあった新倉の集落は、風の当らない南の現在地へ移動したという。古老の話によると「城の上から見て、三つ目のうさぎ塚に対馬守の軍用金が埋められてある。そのうさぎ塚がどこか分らない…。」という。埋蔵金伝説がここにもある。 |