歴史文化

花岡城(はなおかじょう)

《通称・別名》尾尻城(おじりじょう)・湖尻城(こじりじょう)・池尻城(いけじりじょう)

花岡城

所在地 岡谷市湊花岡
史跡指定 市史跡
立 地

諏訪湖の湖尻にある小山が花岡山で、山方が諏訪湖及び天竜川へ落ち込み、西だけが後背の山へ続く。そこを牛首といい、諏訪西方の古道、西街道が通る交通の要衝である。標高811m 比高50m

城主・城歴

『信濃国昔姿』によると、「花岡村城址」は「往古の城主は知れず、天文の頃は武田信玄の弟左馬介信繁守之聦勢僅五百人斗リ二而籠る」とある。(『諏訪古城考』の「花岡村城跡」に同様の記述がある。」 『諏訪旧跡年代記』によると、城主は目まぐるしく変わったようで、承久の頃(1219-21)は有賀四郎、応永年中(1394-1427)には有賀美濃入道性存の一子豊後の守、天文年中(1532-54)有賀備後守、その後浜氏になったという。 武田信繁が領し、板垣信方が湖尻の砦を構えたということは『箕輪記』にもあるらしい。永禄10年(1567)の『諏訪五拾騎面々』の中には、花岡藤兵衛の名があり、同氏は武田信玄に従っていたことが分るが、花岡城在住は不明。 これより先、天文17年(1548)に武田軍が上田原で村上義清と戦って破れたのを機に起こった諏訪西方衆の反乱と塩尻峠の合戦の時には花岡氏は反武田の軍に加わり追放されている。 『神史御頭之日記』に「此年(天文17年)7月十日二西之一族衆并矢島、花岡甲州江逆心故、諏訪ニ乱入候、神長(頼真)・計従河西上原辺江移候、同十九日二西方破悉放火候而…」とあり『守矢頼真書留』には「此年(天文17年)西四郷ノ一族矢島・花岡、七月十日二甲州江致逆心、同十九日二牢人候…」とあり、続く塩尻峠の合戦で小笠原軍は大敗している。 この時に花岡氏は追放されているが、その後にも花岡氏の名前がある所をみると、一族の中で許されて残ったものもあったであろう。 花岡氏は花岡の出で上社の両頭奉行であったが花岡の地頭ではなかったらしい。花岡の地頭は諏訪市の分流小坂氏であったという。 『神長守矢満実書留」の文明3年(1471)の条に『花岡朝氏十二月廿一日死去」とあり、天正六年(1578)の『上諏方造営帳』の前宮一御柱の項に「小池金兵衛代 花岡土佐の名前が見える。 以上のように時代が前後したが、花岡城に関係する人は多く、有賀氏、花岡氏、小坂氏、武田氏、浜氏があるが、はっきりしたことは分らない。

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